2010年11月12日金曜日

SUPERBOY 25周年










平成22年11月11日
当社の25周年を記念したイベントを青山CAYで開催した。

これまで10周年、20周年と所謂パーティ形式で、関係各位に集まっていただき、様々なミュージシャンが次々と飛び入りでステージに上がって演奏を披露してくださったことは本COLUMNにも掲載している。
今回は、25周年とはいえ昨年立ち上げたレコード・レーベル「TEOREMA」そして今年立ち上げた「JUMP WORLD」のアーティストのお披露目を主体にした形で、一般客も入れての普通公演として行うことした。

出演は、「TEOREMA」からジュリエッタ・マシーン、木津茂理、「JUMP WORLD」から小田切大、ギラ・ジルカの4アーティスト。
更に、レーベルとは直接の関係は無いながら、当社に縁のミュージシャンである坂田明さん、澤田勝秋師匠、橋本一子さん、高遠彩子さんにも参加して頂きたくお願いした。
司会は、バラエティやドラマで活躍の金剛地武志さんが引き受けてくれた。
まさにジャンルが全てバラバラ、果たして一般公演として成り立つのかどうか。
しかし、当日は当初の不安をよそに、開演時間前には座席は埋まり、後方の立ち見も立錐の余地が無いくらいに集まって頂いた。

スタートは、シンガー・ソングライターの小田切大のグループ。
メンバーはヴォーカルの小田切、サウンド・プロデューサーでギターの竹中俊二、ベースに大久保’チャイル’崇、ドラムにFunky-Yukky。
臨時編成ながら若さ溢れるサウンドで快調な滑り出し。
初めて聴く人にも、小田切の曲と歌声の素晴らしさは伝わったようで、「彼、良いねえ。」という声を多数頂いた。

二番手は、ジュリエッタ・マシーン。
江藤直子(Key、vo)、大津真(g)、藤井信雄(dr)、西村雄介(b)のベテラン揃い。
ベテランらしく落ち着いた演奏の中に、スリリングなセンスがキラリと光る。
途中、今回のために僕の要請で組み合わせることとなった高遠彩子のヴォーカルが加わり、このバンドのオリジナル曲に自ら付けた日本語詞で、バンドに新しい風を吹かせてくれた。
そして、当社とは切っても切れないピアノの橋本一子の登場。
元々ジュリエッタ・マシーンとも親しく共通項も多いが、ゲストとして加わった一瞬にして一子さんらしい先鋭的な世界を展開。流石のプレイ。
これまでのジュリエッタ・マシーンのライブとは一味異なるとてもバランスの取れた素晴らしく濃厚な40分であった。

ここで、司会の金剛地さんのショウ・タイム。
短い持ち時間の中、持ちネタのエア・ギター、そしてシンガーとしてギター(こちらは本物の)の弾き語り。お客さんを和ませながら流石のエンターテインメントを見せてくれた。

三番手はジャズ・ヴォーカリストのギラ・ジルカ。
今回は(小田切と同様)アルバムのサウンド・プロデューサーである竹中俊二、そして男性ヴォーカルの矢幅歩のアルバム・メンバーに加え、ヴォイス・パーカッションの北村嘉一郎が参加。
ギラと矢幅の絶妙のデュエット、竹中のギター・プレイ、業師の北村の正にショウ・タイム。
ジャズのみならず、R&Bからポップスまで何でもござれの実力ヴォーカリストの面目躍如で、お客さんを堪能させてくれた。

最後は、民謡の木津茂理。
まずはアルバムにも参加の箏の渡邊香澄とのデュオでスタート。
民謡とはいえ、この箏とのデュオはいつもながらまるでジャズのデュオを聴いているかのようなモダンなセンスに溢れていて、ジャンルを超えた音楽の深さを感じる。
続いて、ユニット「つるとかめ」として活動している澤田師匠とのデュオ。
この二人の組み合わせは、世界中どこに行っても誰をもを納得させられる強い血のようなものを感じる。これまでの洋楽的な音楽の流れの中でも全く揺るぎが無い。
そして、坂田明さんの登場。
一昨年、僕の企画で「つるとかめwith坂田明」としてドイツandイタリアを廻り、日独伊三国同盟ツアーと称したのが懐かしい。
坂田さんは、ジャズ・サックス奏者としての基盤がありながら、もはやジャズの枠を飛び越えて音楽そのものを体現するためひたすらSAXを奏でまた時に唄う、唯一無比のミュージシャン。
ここでも短い出番にも係わらず、自分の世界をしっかりと聴き手に植えつけてしまった。


イベント終了後、様々な人からメッセージを頂いたが、
「本当に心に残る素晴らしいイベントだった。」
「これまで経験したなかで有数のコンサート」
「出てくるミュージシャンが、全て個性的で素晴らしかった」
といういずれも感動のコメントを頂いた。

出演してくださったミュージシャンの方々、スタッフとして裏方を引き受けてくれた人たち、ご来場頂いた関係者や一般のお客様に感謝です。

また、出演者ではないにも拘らず掛け付けてくれたミュージシャンの、清水靖晃さん、佐山雅弘さん、サエキケンゾウさん、shezooさん、高津哲也さん、shuさん、シトロバルさん、本当に有難う。
花を届けて下さった新宿ピットインさん、(株)アズプラニングさん、清水靖晃さん(花のみならず登場してくれたときにはびっくり)、遊佐未森さん、渚よう子さん、ソワレさん、土岐麻子さん、本当に感謝です。

2010年8月2日月曜日

桜庵・蕎麦セッション













平成22年7月14日
下井草の住宅街にある友人宅で「桜庵・蕎麦セッション」と題した蕎麦会を行った。

発端は、遡ること昨年の9月、当レーベル「TEOREMA」第2弾となる民謡の木津茂理のアルバム「Japanese Voice」のジャケット撮影のときのこと。

木津のお父様の実家である南魚沼の田んぼの前でロケしたいという本人の希望で撮影に行った際、木津のスタイリストという触れ込みで現れた高遠彩子というモデルのような女性が、近々蕎麦本を出版する予定だという話しから始まった。
その文章の一部をデザイナーの北川氏がインターネットで探し、なかなか凄いです、といって感心していたら、今度はその高遠さんが、実は自分は歌手だと言い出したのだ。
なんだか正体不明な女性だが、ミュージシャンで蕎麦本を出したというなら山下洋輔さんの名を知らない筈は無いだろう、と僕が言うと、はいお名前は、という返事だった。

そんなこんなのうえ、山下さんと高遠さんを引き合わせる機会ができ、ある日蕎麦本繋がりでこの二人が蕎麦を食した帰り際に、山下さんが咄嗟に、一声唄ってみてよ、と言ったら、突然この世のものとも思えぬ超高周波ヴォイスで唄いだし、同席した者全員がぶっ倒れたということだ。
それで、あらためて高遠ヴォイスと山下フリー・ピアノのお手合わせをしつつその後蕎麦を食おうという山下さんの提案があり、それから何度か僕も含めて一緒に蕎麦を食する機会があった。

一方、更に遡ること6年程前、僕の高校の友人新田くんが知人の誘いで蕎麦打ちを始めていた。彼はこれが嵩じて今や「桜庵」という暖簾まで作り、自ら蕎麦教室を始めて蕎麦打ちを教えている。
しかも、彼は数年前に家の敷地に洒落た離れ家を作り、そこにはピアノが置いてあるのだ。
これは願っても無い良い機会と思い、これまで散々山下さんにご馳走になったお礼にこの新田の離れ家で蕎麦会をやりつつ、ついでに山下さんと高遠さんのフリー・セッションを聴かせてもらおうということを企てた。
きっかけとなった木津さんにも声を掛けたら、何とこの日が彼女の誕生日とのこと。それを聞いた津軽三味線の澤田勝秋師匠も、おらも行ぐ、といって参加してくれることになった。

当日は、上記の山下洋輔さん、澤田師匠、木津茂理さん、北川デザイナー、新田夫妻、彼らの長女とその長男、夫人のお父様、夫人のお姉様、僕と女房、我々の長女と次女、長女の旦那、そして蕎麦打ちの先輩の海野さん、助っ人の又木さん、そして当社の篠原という大人数。

新田最近の御薦めの蕎麦刺を皮切りに、蕎麦がき、蕎麦サラダと続き、2種類の特性蕎麦の蕎麦三昧。
東京近郊のみならずあらゆる場所の名だたる蕎麦屋を知っていて、蕎麦に関する薀蓄は誰にも負けない高遠さんの解説など聞きつつ、舌鼓を打つ。
そして蕎麦以上に盛り上がったのは、山下さんの木津さんへの「HAPPY BIRTHDAY」のソロ・ピアノから始まった大セッション。
その返歌のごとく、木津さん自らの寿ぎの唄と太鼓そして師匠の唄と津軽三味線が入りユニット「つるとかめ」のオン・ステージ。
今度は山下さんのピアノに高遠のフリー・ヴォーカルが絡む。
更に澤田師匠が加わるジャム・セッション。
最後は東京音頭でみんな立ち上がって踊りまくるという大団円でお開き。
いやー、なんとも贅沢な時間を過ごさせて頂きました。

また第2弾という声もチラホラ。
乞うご期待。

2010年3月30日火曜日

浅川マキさん



平成22年1月17日、歌手の浅川マキさんが亡くなった。
訃報を知ったのは、当社の元従業員のマリからの電話だった。
マリは現在京都在住で、マキさんと極親しい京都のライブハウス経営者と懇意にしていて、その筋からの連絡網だったようだ。

それまで特に体調の異変を聞いていなかったので、俄かには信じられなかったが、その経緯を聞いて、何か納得したような気持ちになった。
息を引き取ったのは、昔我々もお世話になった名古屋のライブハウス Jazz in Lovery での3daysの中日の公演後。その日の公演が最高の出来で、上機嫌でホテルに帰った後の急変だったそうだ。
いかにもマキさんらしい、音楽世界の真っ只中での昇天だ。

浅川マキという存在を始めて知ったのは、おそらく高校時代のTVだったと思う。
TV?とマキさんのことを良く知る人は思うことだろう。
フジTVの「ミュージック・フェア」という長寿番組はご存知の方が多いだろう。
当時この番組は今と違って、所謂売れ線のミュージシャンではなく、比較的茶の間ではあまり接することの無い内外のミュージシャンを積極的に取り上げていた。

サム&デイブやB.B.キングを初めてみたのはこの番組。初来日どころか、アメリカのソウル・チャートでいきなり1位になったばかりでまだ若かったアレサ・フランクリンをベテランのルー・ロウルズが紹介し、アレサが唄い出したときの衝撃は忘れられない。
当時急激に多くの海外ミュージシャンが来日するようになっていたが、その殆どのミュージシャン達がこの番組に出演していたように思う。

国内のミュージシャンの記憶は比較的少ないが、なかでも良く覚えているのは、マイルスに傾倒しエレクトリック・ジャズに挑戦していた日野皓正のLike Milesという曲、そして最も衝撃的だったのが浅川マキさんである。
特にマキさんはその存在すら知らなかった訳だが、「かもめ」「夜が明けたら」の2曲を例の黒装束と佇まいで歌っている姿は目に焼き付いている。上記の海外アーティストや日野さんのJazzは、当時洋楽志向だった僕にはうってつけで、ある意味なんの違和感も無かったわけだが、日本語のオリジナル・ソングがこれほどソウルフルで心に響いたことそのものに自分自身が驚いたわけだ。
「この人、なんなんだ~。」
って。

その後、フリージャズの山下洋輔さんや森山威男さんがバックを勤めていたり(山下さんは曲も提供している)、山木幸三郎さんというビッグバンドのギタリストが作曲やアレンジをしているということを知り、その尋常ではない存在感の原点が少し分かったような気がしたものだ。

僕自身は大学を経て短期間の会社勤めの後、山下洋輔さんの事務所で働くことになるわけだが、その事務所にマキさんから電話が掛かってきたり現れたり、そして一緒に日比谷野音でコンサートをやることになりスタッフとして働かせてもらうようになるなんて思っても見なかった。

多くの方が語っているように、その長ーい長ーい電話のお相手にもさせてもらった。
伝説の六本木交差点近くの黒づくめのお部屋にも何度か足を運んだ。
でも、直接会っていて思うことは、マキさんが実は物凄く明るい人なんだということだ。
こういう話をするとマキさんのイメージを壊してしまうかもしれないが、僕は何度かマージャンをご一緒したことがある。
まだこの業界に入ってさほど時間が経ってない頃、同業の先輩から、今日新宿でマキさんたちとマージャンをやるからお前も来いってことで付いて行ったら、黒いサングラスのマキさんそしてボサボサの頭であまり綺麗とは言い難い格好のスタッフたちが既に卓を囲んでいた。
正直ちょっと怖気付いて、その日は散々にやられてしまった記憶があるが、それ以上に驚いたのは、マキさんがキャッキャと声を出して本当に楽しそうにマージャンを打っていることだった。そのときのマキさんは天真爛漫にマージャンに没頭していて、僕は徐々に楽しい人なんだという親しみを覚えていた。

ある時、マキさんの京大西部講堂でのコンサートの際、当時僕がマネージャーをやっていたギターの杉本喜代志さんが参加することになった。コンサート自体はマキさんのスタッフがいるわけで、僕は杉本さんをお貸しすれば良いだけだったが、マキさんから
「三田さんも是非一緒に来てください。」
と言って頂き同行することになった。
その翌日ホテルのメールボックスに、僕宛のお手紙入が置いてあった。
ホテルの便箋に、ギャラの精算とその内訳、そして小額であることのお詫び、同行したことへのお礼などなど。
そして最後に
『夜明けの六時 もう、メロメロ』
とあった。
翌日自然解散する出演者やスタッフのために、朝までギャラの準備をしていたのだ。
そういうスタッフに対する気遣いは人一倍強い人で、このときも本当に感激したものだ。
この手紙そして手紙の入った京都パレスサイドホテルの封筒は今でも持っている。

平成22年3月4日、縁の新宿ピットインで
「浅川マキがサヨナラを云う日」
と題されたマキさんを偲ぶ会が催された。

僕はスタッフとして、マキさんに献花するために集まる人々を迎えるべく、朝からピットインのビルの地下の踊り場に立っていた。
朝から雨模様で、地下のその踊り場は二箇所の階段から冷たい風が流れ込み冷え冷えとした。
我々スタッフは、交代で休憩を摂りながらも殆ど立ちっ放しで、寒さと足腰の疲れに耐えながらも、絶えることなく献花に訪れる人々を夜まで待ち続けた。

マキさんが自分の音楽を突き進めるために、レコーディングでもライブでもとことん細部にこだわり、それ故に時の流れが止まってしまうようなときでも、辛抱強く辛抱強く目標に向っていたその姿勢を思い出しながら立っていたのは僕だけではないと思う。
昔僕がマキさんと始めて仕事をした頃の当時のマキさんスタッフだった二人が、朝からその踊り場の壁に沿ってじっと立っていた。
今回はスタッフとしてではなさそうなのに、特に何もすることはなく口をきくことも無く只ひたすら立っていた。
何か中途半端にこの場を去ってはいけないかのように、何時間ものこの会の間立ち続けていた。

平成22年3月某日
三田

2009年10月26日月曜日

山下洋輔トリオ復活祭

mita





7月19日(日)夕刻。
あの伝説の山下洋輔トリオの40周年記念コンサートが、日比谷の野外音楽堂で催された。
出演は、山下以外に第一期トリオの中村誠一(sax)と森山威男(ds)、以下坂田明(sax) 、小山彰太(ds)、林栄一(sax)、国仲勝男(b)、そして亡武田和命(sax)の代理人菊地成孔(sax)と歴代のメンバーが勢ぞろい。司会は勿論山下の心の師相倉久人だ。

僕はこの企画を聞いたときから「是非手伝わせて欲しい。」と村松社長に申し入れ、実際ジャムライス在籍時代と同じように、基本的に全ての打ち合わせに参加させてもらい、当日も25年ぶりにいちスタッフとして楽屋周りを担当した。

会場には早くから嘗てからの熱狂的ファンのみならず、伝説のトリオを一目見ようという若いファンも多数押しかけている。
まずオープニングは、林&小山の第4期トリオの「回想」からスタート。
いきなり飛び出した林さんのプレイに、舞台袖から見守る誠一さんの「飛ばしてるなあ!」の声に一同ニヤニヤ。
コンサートはその後、時代を遡り最後の第1期トリオ、そしてアンコールで全員集合の「GUGAN」まで、熱い演奏が繰り広げられた。
ただひとり出ずっぱり(休憩後の相倉さんと菊地さんのトーク・タイム以外は)の山下さんの体力が心配であったが、そのパワーは衰えることなく完奏。?十歳前とは思えない。

2部の第2期トリオのあの名曲「キアズマ」の演奏中、空には見事なダブル・レインボウが掛かった。山下さん曰く、この二つの虹はこの間亡くなった武田和命さんと平岡正明さんだ、というのはその通りだと思う。
この40年の間に多くの方々がこのトリオに係わってきたが、その誰しもが今回のコンサートに多大なる祝福を送ったに違いない。





*本コラム掲載写真以外の写真をご覧になりたい方は、カメラマン内田巧さんのサイトでご覧いただけます。
http://www.uea00.com/yyt40th/index.html

山下洋輔トリオ復活祭 その2

mita

そもそも僕が音楽の世界で仕事するようになったのは、山下さんのマネージメント事務所ジャムライスに誘われたことが切っ掛けだ。丁度ドラムの森山さん から彰太さんへと変わった第3期山下トリオへの転換期で、山下さんのマネージメントもその前のテイクワンからジャムライスに移行したばかりであった。
その後7年間ジャムライスでお世話になった後、現在のCM音楽プロデューサーを目指し退社、1年半後には現在の(有)スーパーボーイ(当初は(有)四宝)を立ち上げた訳だが、ここでの経験が今の僕の仕事にどれ程役立っているか計り知れない。

僕が山下洋輔というミュージシャンを知ったのは、高校3年の頃である。
ジャズを聴くようになったころ、ジャズ雑誌のなかでちょくちょく名前を見るようになり、何となくその活動が気になっていた。
そして大学受験のため上京した僕は、恵比寿の伯母の家に宿泊しており、受験の帰り道渋谷の有名なオスカーというジャズ喫茶に入った。そのときに店の壁に「山下洋輔トリオ出演」と書いてあった。これはラッキーと思ったが、よく見るとその張り紙は翌月の案内であった。
元々受験で上京するに当たって、折角なので必ず東京でライブを聴きたいと思っていて、受験の最終日には友人たちと待ち合わせ新宿のピットインに出掛けた。するとなんとその日の出演が山下トリオだったのだ。勿論中村、森山の第1期トリオだ。

当時ジャズの聴き初めで、所謂オーソドックスなモダンジャズばかりを聴いていて、フリー・ジャズというものにはあまり興味は無かったが、何故か山下洋輔という名前には引っかかるものがあった。
現在のピットインの3分の1くらいのスペースのなかはぎっしりで、身動きも出来ない。
演奏が始まるや物凄いパワーとスピードで唖然とするうちにあっという間にステージが終わった。同行した友人二人は特にジャズファンという訳ではなかったが、「なんかよう分からんが、かっこええのお!」と感動していた。
僕は、なにか凄いものを見た気がして何も言えなかった。

僕は結局広島の大学に行くことになり、東京でジャズ三昧の大学生活という目論見は砕けたが、その代わりに大学の最初の夏休みに京都を中心にしたジャズ喫茶巡りを敢行した。
広島から京都に向う途中で神戸に立ち寄り、まずは最初に目指す店「さりげなく」を探した。ジャズ雑誌に広告掲載されている割には、狭くて只普通の喫茶 店風の店だった。そのときに流れていた音楽がフリーで激しい。もしやと思いジャケットを見せてもらうと、当時珍しい自主制作レコードで、入手困難だった山 下トリオのデビュー・アルバム「ダンシング古事記」であった。名前だけで聴いたことは無かったが、すぐにぴんと来た勘は正しかった。

同じ夏、僕は仲間を誘って、三重にある合歓の里で行われるジャズ・フェスティバルに出向いた。そこでは、渡辺貞夫、日野皓正、菊池雅章やチック・コリアなどと共に山下トリオにブラス・セクションを配備したスペシャル・バンドが出演していた。
そのフェスティバルは、台風で雨風が混じる中で夜通し敢行された野外ライブ。我々聴衆はずぶ濡れになりながらも豪華な出演者の素晴らしい演奏に酔いし れていた。そして明け方、最後のバンドの演奏が終わっても盛り上がった観客の拍手・歓声が鳴り止まない。困った主催者が、聴取を鎮めるために急遽呼び出し たのが山下洋輔で、彼は一人黙ってピアノに向かい静かにソロプレイを始めた。先ほど見せた激しいプレイは今は無い。空が白み朝を迎える中の素晴らしい演奏 で、聴衆誰もが納得し、フェスティバルは幕を閉じた。

その数年後、偶然ジャムライスに入ったばかりの僕は、当時この合歓の里ジャズフェスティバルの企画制作に係わっていたジャムライスのスタッフとして、また同時に山下トリオのスタッフとしてこの合歓の里に再び乗り込むことになったのである。
ジャムライスでの7年間は、なにものにも変えがたい沢山の経験をさせて頂き、楽しくて仕方ない時代だった。
丁度「全冷中」の第1回イベントが開催されたのも僕が入った年だったし、タモリさんや赤塚不二夫さんはじめ音楽界ではない人脈も含めて、物凄い人たちとの交流に末席を汚させて頂いた。

その後ジャムライスを辞し、CM音楽プロデューサーを目指したわけだが、そのときに心に秘めていたのが、「山下さんとCMの世界で仕事をしたい。」と いう夢だった。それまでCM出演の話は多数ありながら、内容的に断り続けていた山下さんであったが、必ずや山下さんに合った良いCMの機会があるはずだと 信じていた。
そして会社設立10年目の節目の年、ジャムライスから「今度山下さんのダイハツMOVEという車のCM出演が決まったが、音楽プロデューサーを引き受けて欲しい。」との連絡を頂いた。ついに念願がかなったのだ。
山下洋輔初のCM出演。勿論音楽はオリジナル。その頃CM音楽プロデューサーとしてそこそこの経験は踏んでいたものの、やっとCM出演を決意した山下さんの音楽をどうするか、眠れない日々が続いたがそれは同時に僕にとって一番楽しい時間でもあった。
結果的にはインパクトがある音楽と映像となり評判はすこぶる良かった。僕としても代表作として大事な作品となった。

山下さんとは今も交流をさせて頂いており、自分がプロデュースした音楽を聴いていただいたり、山下さんのコンサートに関して僕なりの感想や意見を述べさせて頂いたり。時には「そっくりさん探し」など音楽以外の話もさせてもらっている。
僕はいつの間にか山下さんを師匠のように感じるようになっている。
山下さん、押しかけの弟子ですが、今後とも宜しくお願いいたします。

2009年7月23日木曜日

ヨーロッパ日記2009

mita

ついに4度目の欧州ツアー。
今回は和太鼓でコンテンポラリーな活動を続けるレナード衛藤率いる「レナード衛藤BLENDRUMS」。ギターの鬼怒無月、タップのSUJIを従えて、ド イツ、スイス、イタリアで4公演を行う。同行スタッフは舞台監督の斉藤厚(通称パク)と私三田の2名で計5名でのツアーとなった。

6/10(水)

いよいよ出発。
今回は大太鼓を持ち込むことで、運搬に関しての諸問題に頭を痛め、またなかなか日程や旅程が定まらず、準備段階の約半年でクタクタ。やっとという思いである。
レナードは問題の楽器が無事通関出来るように早くもカウンターで必死の手続き。鬼怒は帰国後の手術(現在は完治)を控えて食事制限のため、機内食の綿密な相談。カウンターの担当の女性が思いの他丁寧な対応で、本人も大納得。

同日フランクフルト空港に到着し、たまたま同時刻に空港にいらっしゃったケルン日本文化会館の上田館長自らのお迎えもあり車でケルンまで。
ホテルにはご担当の大西さん山口さんが待ち受けていて下さり、早速文化会館のお招きで食事に。
館長とは3度目、大西さんとは4度目、山口さんは2度目と、僕にとっては懐かしい方々で、一挙に欧州モードに。

6/11(木)

例年と異なり公演の2日前のりで、この日はいきなりOFF。
午前中は当地の太鼓グループによるレナードへのインタビューがあり、午後から観光に。
既に2回ケルン大聖堂に行っている僕は、大聖堂に行くみなと別れ、一人でアーヘンまで。
これが思いの他遠く、やっと着いたら雨。傘も持たず雨の中を歩いたが人通りも少なく特に見るものもなく、直ぐにUターン。

6/12(金)


今日は、ケルン日本文化会館の公演で、本ツアー最初の公演となる。
鬼怒は朝からホテルの中庭でギターの練習に余念がない。
それを聴いていたホテルの受付のおばさまが、中庭へのドアを開けて「こうした方が良く聴こえるわ。」とすっかり聴き惚れた様子。おばさまに本日公演があることを伝えたら、本当に聴きにきて下さった。
今回はノンPAということで、サウンドチェックや照明、リハ全て順調。
開演前にはこれまでにない人だかりで、立ち見を出すもまだ入りきらず、ホール後方のドアを半分開けてロビーまではみ出しながら聴いていただく。それでも入れなかった人が20~30人しぶしぶ帰ったそうだ。欧州での和太鼓人気のことは聞き及んでいたが、これほどとは。
今回のツアーに向けて組んだ3人のバランスも絶妙で素晴らしい内容。当然のことながら全員スタンディング・オベーションで大喝采のうちに公演終了。

終了後いつものように会館で軽い打ち上げ。
テクニカルの上野さん(この方も僕は4度目になります…いつも急なお願いにテキパキと対応してくださいます。感謝。)がご自分のとっておきの蒸留酒を出し てくださり、我々もすっかり良い気分に。打ち上げも程ほどに、これまた例年の事ながら、この日はそのままバスで次なる公演地のデュッセルドルフへ直行。
総領事館の大隈氏、小西嬢の出迎えでホテルに入る。

6/13(土)


欧州でも最大級のお祭りである「日本デー」でのゲスト出演。
例年100万人の人出で、ライン河辺の広場に作られた特設ステージの周りには5000人以上の観客が集まる予定。
しかし懸念していた豚インフルエンザが拡がっていて、前日に日本人学校が閉鎖され、このステージに出演予定だった幾つかのグループがキャンセルになったと聞くが、イベント自体は決行とのこと。

朝のサウンドチェックのため一同バスで会場へ。
既にあちこちで、これも見慣れた日本アニメのコスプレ達の姿が見える。
本ツアーで唯一PAを使用する公演で、レナードがなかなか音色に納得できないが、現地のサウンド・エンジニアは我慢強く我々の話を聞いてくれ、結果オーライ。

昨年は司会を務め今年は我々のアテンドをして頂いているマイト・ピア・智子さんとランチを済ませ、一旦ホテルへ。

18時に再び会場入りし19時半からの出演を待つ。
今年も前日のケルン文化会館の上田館長、大西夫妻が応援に駆けつけてくれている。
そして総領事館の渡辺夫妻も当日ボンでの仕事を終え会場入り。
このツアーの立役者の総領事田中氏は、豚インフルエンザ騒ぎで対応に追われ会場には来れないないとのことだったが、何とか間に合った。田中氏はステージの上手袖で演奏をジーッと聴き入り、涙を流さんばかりに感動されていた。

例年黒山の人だかりであるが、今年はいつも以上で、ヴィデオカメラを持って客側から撮ろうとしてもギッシリで身動きが出来ない。諦めて今年は全てステージ側から撮影することに。
欧州の和太鼓人気と例年以上の快晴が合いまったのか、物凄い熱気のなか演奏が始まる。
今年から設置されたステージ下手の大プロジェクターも大迫力で全てがスケール・アップしている。バンドも好調のまま一気にラストの曲、アンコールと続き、大歓声のなかステージを降りた。

6/14(日)

文化会館の大隈氏と小西嬢の見送りで、デュッセルドルフ空港からいよいよ初のスイスはチューリッヒ空港へ。
日本出発間際までスイスの公演地ツークとのコミュニケーションがうまくいかず、ローカル・エアラインのエア・ベルリンでの大型荷物の運搬、現地の迎え、ホテル、勿論公演に関しても全て不安だらけ。
唯一の頼りは、レナードの古巣「鼓童」の主催者で、今回この状況のなか何かとフォローして下さっているマリア・ゼンダーさんだ。チューリッヒに着きマリアさんが迎えてくれると、一挙に不安が吹き飛ぶ。

マリアさんは自宅に我々を招いてパーティを開催して下さるとのこと。レナードと僕がお供し、パーティ用の買出しに。
マリアさんのご自宅は、アパートを借り切った素敵なお家だ。
住まい、仕事場の他に、畳のある客部屋もあり、またライブも出来るようなスタジオや世界各国の打楽器を集めた倉庫もあり、羨ましい環境だ。
スペイン在住の船乗りのご夫妻も加わり、マリアさんの手料理のイタリア料理とワインで一同すっかり良い気分に。

6/15(月)

完全オフ日で、僕とパクはチューリッヒ湖の遊覧船に乗り込み、湖辺のいかにもスイスらしい家々やアルプスを眺めながらゆったりした時間をすごした。

夜はマリアさんの薦めで、チューリッヒのライブハウスへ。スタッフのローズラさんが同行してくれた。この日のライブは、チューリッヒの有名な地元バンドで超満員。
バンドは50歳を超えるベテランと20代くらいの若手が混合していて、サウンドも旧きロックとオルタナティブ、そしてジャズ的要素も加わった実力もあるなかなか面白いグループだ。

6/16(火)

いよいよ事前に様々な問題があったスイス公演。
チューリッヒから車で2時間程の郊外にあるツークという田舎町にあるチョーラー・ホールが会場だ。会場はなかなか都会的な洒落たホールで、ロビーは広くゆったりと食事も出来るスペースがある。
主催のピーターが出迎えてくれて、にこやかな挨拶。
楽屋もゆっくりと寛げる部屋で、部屋に用意されたケータリングのパンやハム・野菜、飲み物は素晴らしく充実している。なんとワインも飲みきれないくらい用意してある。

到着までその開催が危ぶまれていたのに、どうも肩透かしでとても良い雰囲気。
4公演のうち唯一有料のコンサートでなかなか高い。しかもこんな田舎町。更に事前の問題故にプロモーション時間も充分でなかっただろうということで、お客 さんの入りが心配であったが、しっかり満席にしてくれた。ダメ主催者と思っていたピーターはどうやらなかなかのやり手で、地元の情報誌などにも顔が利くよ うで、大きく取り上げて貰った記事などを見せてくれた。
公演はここでも拍手喝さい。音響の良さもあり、本ツアーで一番の出来となった。

終演後は楽屋で打ち上げがあり、我々全員にスイスの強いリキュールのお土産まで付いた。
以来、我々の間では「素晴らしい主催者」とすっかりと前評判と逆転した。なんとも現金なバンドマン魂である。

6/17(水)


一同チューリッヒ空港からローマはフィウミチーノ空港へ。空港ではローマ日本文化会館の高内嬢のお迎え。
今回はJAL便の都合で4泊となり、予算の関係でアパートを借りたのだが、これが素晴らしく快適。3つのベッドルームを5人で分け合い、他に居間とキッチ ン。コロッセウのすぐ近くでアクセスも良い。シェフ斉藤が連日朝食の準備をしてくれ、食事もなんら問題ない。強いて言えば、鍵が2個しかないのでグループ 行動を取らざるを得ないのが唯一の難点だ。

夜は高内さんと同じく会館の杉本嬢の案内で、イタリアン・レストラン「Da Domenico」へ。昨年のローマでは今一食事に納得していなかったけれど、ここは素晴らしい。流石文化会館の方のお薦めで、店内も程ほどに高級感があ り、値段はリーズナブルで、勿論味は一級。昨年のローマの印象が吹き飛んだ。

6/18(木)

ローマ日本文化会館公演
ここはご担当の高内さんも盛んに気にされていたように、音響的にかなりライブなホールで、案の定太鼓の響きのバランスが難しい。PAも使わないので後は演奏者の力加減次第であるが、リハーサルでの試行錯誤の上なんとか良い感じに。流石全員プロである。

始まるや熱気溢れる観客で、大いに盛り上がる。
タップのSUJIの場面になると、客席の関係で足元が見えにくい後ろのお客さんは、立ち上がって左右の通路に行き熱心に見入っている。
終演後も多くの太鼓ファンがサインを求めて各メンバーに詰めかけなかなか納まらない。
10代と思われる可愛い女の子たちも熱心にサインを求めている。
ドイツやスイスの和太鼓好きは有名だが、イタリアに関してはそういう情報は無かったものの、どうやら自ら太鼓のチームに属している人たちも多かったようだ。
ヨルダンからのお客さんが、来年是非呼びたいと申し出てくれたが、是非実現したいものだ。

夜は、日本文化会館の高田館長夫妻、高内さん、杉本さん、秋山さん、クリスティーナさんと共にイタリアン・レストランへ。ここは特にシーフードがお薦めの様で、シーフード好きの僕には何より嬉しい。
館長夫人も音楽が本当にお好きのようで、本公演のことなど熱心にお話しくださった。

6/19(金)


全公演を終了し、21日の帰国を待っての完全OFF。
昨日僕が突然「ナポリに行ってみたい。」と言いだしたが、文化会館の方たちはあまり薦めてくれない。理由はやはり治安の問題のようである。
一度は怯んだが、男ばかりの4人組(SUJIはこの日はアパートで休養)、なんとかなるだろうと繰り出した。

最近運行するようになったらしい新幹線のような特急で約1時間。
ナポリ駅を出るとやはり怪しい雰囲気で、ちょっと気が引き締まる。
目指すサンタ・ルチア海岸までの行き方が分からず、善良そうな主婦に道を聞くと一緒に路面電車に乗り込んでくれたが、背負っていたリュック・サックを見て、危ないから前に抱えろとの指示。やはり治安は悪いのだなと実感する。

しかし、海辺に着いてみると、なんとも素晴らしい景色。映画などで見るのと同じ、太陽も海も輝いている。何かの映画にあったように、子供たちが次々と海に飛び込んでいる様子が何故か懐かしい。ああ、ここにせめて一週間いたいなあ、と思うがそうはいかない。
海岸の突端にある「卵城」、そしてヴォメロの丘から展望するナポリの町。
突然の思いつきであったが、来て良かった。正に「ナポリを見てから死ね」であった。

6/20(土)

仕事の関係で一足先に帰国する鬼怒を見送り、個々にローマ見物。
昨年バチカン市国でサン・ピエトロ大聖堂に行きながら入れなかったシチリアーノ礼拝堂を目指す。「最後の審判」や天井画を観て、中学生の頃観た映画「華麗なる激情」を思い出し感慨深い。
夜は、ローマ初日と同じレストラン「Da Domenico」で仕上げ。

6/21(日)

長かった欧州ツアーも最後の日がやってきた。
高内さんのお見送りを受け、無事大太鼓の手続きも済み、いよいよ帰国の途へ。

この間多くの人にお世話になり、成果の大きいツアーになりました。
そして何よりも楽しいツアーになったことを、関係の皆様にお礼申し上げます。