2011年1月29日土曜日

古澤良治郎さんが逝ってしまった。



昨日(2011.1.16)、古澤さんの告別式に行ってきました。
一昨日は山下洋輔さんのコンサートがあってお通夜には行けませんでしたが、お通夜組(彰太さん、大徳さん、知己さん、廣木、石渡、GAMO、川村さん、怪物さん、鈴木君など)と新宿で合流して追悼会になりました。
葬儀の会場はなんとも古澤さんらしくない立派な会場でしたが、参列者も多くなかなか心温まる古澤さんらしい良い告別式となりました。

古澤さんは、ジャムライスに入ったばかりの僕をとても可愛がってくれました。
当時僕は、山下さんや向井さんのみならず、そのサイドメンのそれぞれのリーダーバンドの全てをブッキングしていましたが、現場に必ず同行していたのが、向井バンドと古澤バンドでした。
その両方のドラムが古澤さんでしたから、一番接触が多い人でした。

その頃僕は国分寺に住んでいましたので、古澤さんはよく「三田、乗ってけよ!」と言って西荻まで車に乗せてくれました。新宿などからは最初から電車に乗った方が早いのですが、どうも話をしたいようで、乗ってけ、乗ってけと誘ってくれ、そして、いろんなミュージシャンや音楽のこと事務所のこと、愚痴やら含めていろんな話をしてくれたものです。

僕がライブハウスで初めてミュージシャンからお金を貰ったのは、古澤さんからでした。ある日、5人のミュージシャンなのにギャラを6等分していて、「三田、これお前の分。」と言って渡してくれました。
千円札が含まれていたかどうか記憶にありませんが、貧乏でしたから有難かったのはようく覚えています。

また、ミュージシャンで最初に呑みに連れて行ってくれたのも古澤さんでした。
六平さんとかにはいろいろと呑みに連れて行ってもらう機会は多かったのですが、ミュージシャンからというのは初めてでした。
古澤さんから「今日は俺がおごるから、行こう。」と言われ、確か新宿の「タロー」の後に花園神社の近くの小さな呑み屋に行ったのを覚えています。

古澤さんがジャムライスを離れ、また僕自身もジャムライスを辞めてから、川村さんに頼まれてリー・オスカーのプロジェクトを手伝っていたことがあります。
その一環で、「WAR」を呼び向井=古澤バンドとコンサート・ツアーをしたのですが、名古屋のコンサートの後、いつもお世話になっているジャズ・ライブハウス「ラブリー」で打ち上げしていたときに、ひょんなことから僕と古澤さんが言い合いになり、それこそ胸倉をつかみ合うような大喧嘩になってしまったのですが、でもその後引きずることなく、会えば普通に声を掛けてくれました。

そのひょんなことというのは…
WARのバンドのSAX奏者が実は根っからのジャズ・ミュージシャンで、打ち上げでのジャム・セッションでジャズを演奏できるのがもう嬉しくて嬉しくて仕方ないって感じで、アドリブしまくってました。
勿論ドラムは古澤さん。
当時殆ど4ビートを叩くことがなかった古澤さんが実に素晴らしく、こんなにジャズが上手かったっけ?と思い、僕が周りのみんなに、古澤さんの4ビート最高ですねえ、なんてワイワイ言っていたんですが、それを例によってシンバルの隙間から客席を観察していた古澤さんが、なんか自分の悪口を言っていると勘違いしたらしく、終わってから不機嫌な顔をして
「また、俺をバカにして、何やかや言ってたんだろう。」
とか言い出し、挙句に
「お前ら、みんなリーだのWARだのばかり言って、俺たちなんかどうでも良いんだよな。」
とか言っていじけだす始末。
カチンときた僕が、
「何言ってんですか、リーだのWARだの呼んでこうやっているのも、みんな古澤さんのために頑張ってるんじゃないですか!」
と言い放って、段々とエスカレートしてしまったんです。

古澤さんは決して上手いドラマーではなかったと思いますが、じっと聞いていると味わい深いドラムで、ソロなどは他のどんなドラマーよりもメロディーが浮かんでくるドラミングでした。また多くのミュージシャンからも慕われるその音楽性は、古澤さんの人間性そのものでしたね。

ホント面倒くさい人でしたが、なにか恨めない面白い人でした。

2011.1.17
三田晴夫