2010年11月12日金曜日

SUPERBOY 25周年










平成22年11月11日
当社の25周年を記念したイベントを青山CAYで開催した。

これまで10周年、20周年と所謂パーティ形式で、関係各位に集まっていただき、様々なミュージシャンが次々と飛び入りでステージに上がって演奏を披露してくださったことは本COLUMNにも掲載している。
今回は、25周年とはいえ昨年立ち上げたレコード・レーベル「TEOREMA」そして今年立ち上げた「JUMP WORLD」のアーティストのお披露目を主体にした形で、一般客も入れての普通公演として行うことした。

出演は、「TEOREMA」からジュリエッタ・マシーン、木津茂理、「JUMP WORLD」から小田切大、ギラ・ジルカの4アーティスト。
更に、レーベルとは直接の関係は無いながら、当社に縁のミュージシャンである坂田明さん、澤田勝秋師匠、橋本一子さん、高遠彩子さんにも参加して頂きたくお願いした。
司会は、バラエティやドラマで活躍の金剛地武志さんが引き受けてくれた。
まさにジャンルが全てバラバラ、果たして一般公演として成り立つのかどうか。
しかし、当日は当初の不安をよそに、開演時間前には座席は埋まり、後方の立ち見も立錐の余地が無いくらいに集まって頂いた。

スタートは、シンガー・ソングライターの小田切大のグループ。
メンバーはヴォーカルの小田切、サウンド・プロデューサーでギターの竹中俊二、ベースに大久保’チャイル’崇、ドラムにFunky-Yukky。
臨時編成ながら若さ溢れるサウンドで快調な滑り出し。
初めて聴く人にも、小田切の曲と歌声の素晴らしさは伝わったようで、「彼、良いねえ。」という声を多数頂いた。

二番手は、ジュリエッタ・マシーン。
江藤直子(Key、vo)、大津真(g)、藤井信雄(dr)、西村雄介(b)のベテラン揃い。
ベテランらしく落ち着いた演奏の中に、スリリングなセンスがキラリと光る。
途中、今回のために僕の要請で組み合わせることとなった高遠彩子のヴォーカルが加わり、このバンドのオリジナル曲に自ら付けた日本語詞で、バンドに新しい風を吹かせてくれた。
そして、当社とは切っても切れないピアノの橋本一子の登場。
元々ジュリエッタ・マシーンとも親しく共通項も多いが、ゲストとして加わった一瞬にして一子さんらしい先鋭的な世界を展開。流石のプレイ。
これまでのジュリエッタ・マシーンのライブとは一味異なるとてもバランスの取れた素晴らしく濃厚な40分であった。

ここで、司会の金剛地さんのショウ・タイム。
短い持ち時間の中、持ちネタのエア・ギター、そしてシンガーとしてギター(こちらは本物の)の弾き語り。お客さんを和ませながら流石のエンターテインメントを見せてくれた。

三番手はジャズ・ヴォーカリストのギラ・ジルカ。
今回は(小田切と同様)アルバムのサウンド・プロデューサーである竹中俊二、そして男性ヴォーカルの矢幅歩のアルバム・メンバーに加え、ヴォイス・パーカッションの北村嘉一郎が参加。
ギラと矢幅の絶妙のデュエット、竹中のギター・プレイ、業師の北村の正にショウ・タイム。
ジャズのみならず、R&Bからポップスまで何でもござれの実力ヴォーカリストの面目躍如で、お客さんを堪能させてくれた。

最後は、民謡の木津茂理。
まずはアルバムにも参加の箏の渡邊香澄とのデュオでスタート。
民謡とはいえ、この箏とのデュオはいつもながらまるでジャズのデュオを聴いているかのようなモダンなセンスに溢れていて、ジャンルを超えた音楽の深さを感じる。
続いて、ユニット「つるとかめ」として活動している澤田師匠とのデュオ。
この二人の組み合わせは、世界中どこに行っても誰をもを納得させられる強い血のようなものを感じる。これまでの洋楽的な音楽の流れの中でも全く揺るぎが無い。
そして、坂田明さんの登場。
一昨年、僕の企画で「つるとかめwith坂田明」としてドイツandイタリアを廻り、日独伊三国同盟ツアーと称したのが懐かしい。
坂田さんは、ジャズ・サックス奏者としての基盤がありながら、もはやジャズの枠を飛び越えて音楽そのものを体現するためひたすらSAXを奏でまた時に唄う、唯一無比のミュージシャン。
ここでも短い出番にも係わらず、自分の世界をしっかりと聴き手に植えつけてしまった。


イベント終了後、様々な人からメッセージを頂いたが、
「本当に心に残る素晴らしいイベントだった。」
「これまで経験したなかで有数のコンサート」
「出てくるミュージシャンが、全て個性的で素晴らしかった」
といういずれも感動のコメントを頂いた。

出演してくださったミュージシャンの方々、スタッフとして裏方を引き受けてくれた人たち、ご来場頂いた関係者や一般のお客様に感謝です。

また、出演者ではないにも拘らず掛け付けてくれたミュージシャンの、清水靖晃さん、佐山雅弘さん、サエキケンゾウさん、shezooさん、高津哲也さん、shuさん、シトロバルさん、本当に有難う。
花を届けて下さった新宿ピットインさん、(株)アズプラニングさん、清水靖晃さん(花のみならず登場してくれたときにはびっくり)、遊佐未森さん、渚よう子さん、ソワレさん、土岐麻子さん、本当に感謝です。

2010年8月2日月曜日

桜庵・蕎麦セッション













平成22年7月14日
下井草の住宅街にある友人宅で「桜庵・蕎麦セッション」と題した蕎麦会を行った。

発端は、遡ること昨年の9月、当レーベル「TEOREMA」第2弾となる民謡の木津茂理のアルバム「Japanese Voice」のジャケット撮影のときのこと。

木津のお父様の実家である南魚沼の田んぼの前でロケしたいという本人の希望で撮影に行った際、木津のスタイリストという触れ込みで現れた高遠彩子というモデルのような女性が、近々蕎麦本を出版する予定だという話しから始まった。
その文章の一部をデザイナーの北川氏がインターネットで探し、なかなか凄いです、といって感心していたら、今度はその高遠さんが、実は自分は歌手だと言い出したのだ。
なんだか正体不明な女性だが、ミュージシャンで蕎麦本を出したというなら山下洋輔さんの名を知らない筈は無いだろう、と僕が言うと、はいお名前は、という返事だった。

そんなこんなのうえ、山下さんと高遠さんを引き合わせる機会ができ、ある日蕎麦本繋がりでこの二人が蕎麦を食した帰り際に、山下さんが咄嗟に、一声唄ってみてよ、と言ったら、突然この世のものとも思えぬ超高周波ヴォイスで唄いだし、同席した者全員がぶっ倒れたということだ。
それで、あらためて高遠ヴォイスと山下フリー・ピアノのお手合わせをしつつその後蕎麦を食おうという山下さんの提案があり、それから何度か僕も含めて一緒に蕎麦を食する機会があった。

一方、更に遡ること6年程前、僕の高校の友人新田くんが知人の誘いで蕎麦打ちを始めていた。彼はこれが嵩じて今や「桜庵」という暖簾まで作り、自ら蕎麦教室を始めて蕎麦打ちを教えている。
しかも、彼は数年前に家の敷地に洒落た離れ家を作り、そこにはピアノが置いてあるのだ。
これは願っても無い良い機会と思い、これまで散々山下さんにご馳走になったお礼にこの新田の離れ家で蕎麦会をやりつつ、ついでに山下さんと高遠さんのフリー・セッションを聴かせてもらおうということを企てた。
きっかけとなった木津さんにも声を掛けたら、何とこの日が彼女の誕生日とのこと。それを聞いた津軽三味線の澤田勝秋師匠も、おらも行ぐ、といって参加してくれることになった。

当日は、上記の山下洋輔さん、澤田師匠、木津茂理さん、北川デザイナー、新田夫妻、彼らの長女とその長男、夫人のお父様、夫人のお姉様、僕と女房、我々の長女と次女、長女の旦那、そして蕎麦打ちの先輩の海野さん、助っ人の又木さん、そして当社の篠原という大人数。

新田最近の御薦めの蕎麦刺を皮切りに、蕎麦がき、蕎麦サラダと続き、2種類の特性蕎麦の蕎麦三昧。
東京近郊のみならずあらゆる場所の名だたる蕎麦屋を知っていて、蕎麦に関する薀蓄は誰にも負けない高遠さんの解説など聞きつつ、舌鼓を打つ。
そして蕎麦以上に盛り上がったのは、山下さんの木津さんへの「HAPPY BIRTHDAY」のソロ・ピアノから始まった大セッション。
その返歌のごとく、木津さん自らの寿ぎの唄と太鼓そして師匠の唄と津軽三味線が入りユニット「つるとかめ」のオン・ステージ。
今度は山下さんのピアノに高遠のフリー・ヴォーカルが絡む。
更に澤田師匠が加わるジャム・セッション。
最後は東京音頭でみんな立ち上がって踊りまくるという大団円でお開き。
いやー、なんとも贅沢な時間を過ごさせて頂きました。

また第2弾という声もチラホラ。
乞うご期待。

2010年3月30日火曜日

浅川マキさん



平成22年1月17日、歌手の浅川マキさんが亡くなった。
訃報を知ったのは、当社の元従業員のマリからの電話だった。
マリは現在京都在住で、マキさんと極親しい京都のライブハウス経営者と懇意にしていて、その筋からの連絡網だったようだ。

それまで特に体調の異変を聞いていなかったので、俄かには信じられなかったが、その経緯を聞いて、何か納得したような気持ちになった。
息を引き取ったのは、昔我々もお世話になった名古屋のライブハウス Jazz in Lovery での3daysの中日の公演後。その日の公演が最高の出来で、上機嫌でホテルに帰った後の急変だったそうだ。
いかにもマキさんらしい、音楽世界の真っ只中での昇天だ。

浅川マキという存在を始めて知ったのは、おそらく高校時代のTVだったと思う。
TV?とマキさんのことを良く知る人は思うことだろう。
フジTVの「ミュージック・フェア」という長寿番組はご存知の方が多いだろう。
当時この番組は今と違って、所謂売れ線のミュージシャンではなく、比較的茶の間ではあまり接することの無い内外のミュージシャンを積極的に取り上げていた。

サム&デイブやB.B.キングを初めてみたのはこの番組。初来日どころか、アメリカのソウル・チャートでいきなり1位になったばかりでまだ若かったアレサ・フランクリンをベテランのルー・ロウルズが紹介し、アレサが唄い出したときの衝撃は忘れられない。
当時急激に多くの海外ミュージシャンが来日するようになっていたが、その殆どのミュージシャン達がこの番組に出演していたように思う。

国内のミュージシャンの記憶は比較的少ないが、なかでも良く覚えているのは、マイルスに傾倒しエレクトリック・ジャズに挑戦していた日野皓正のLike Milesという曲、そして最も衝撃的だったのが浅川マキさんである。
特にマキさんはその存在すら知らなかった訳だが、「かもめ」「夜が明けたら」の2曲を例の黒装束と佇まいで歌っている姿は目に焼き付いている。上記の海外アーティストや日野さんのJazzは、当時洋楽志向だった僕にはうってつけで、ある意味なんの違和感も無かったわけだが、日本語のオリジナル・ソングがこれほどソウルフルで心に響いたことそのものに自分自身が驚いたわけだ。
「この人、なんなんだ~。」
って。

その後、フリージャズの山下洋輔さんや森山威男さんがバックを勤めていたり(山下さんは曲も提供している)、山木幸三郎さんというビッグバンドのギタリストが作曲やアレンジをしているということを知り、その尋常ではない存在感の原点が少し分かったような気がしたものだ。

僕自身は大学を経て短期間の会社勤めの後、山下洋輔さんの事務所で働くことになるわけだが、その事務所にマキさんから電話が掛かってきたり現れたり、そして一緒に日比谷野音でコンサートをやることになりスタッフとして働かせてもらうようになるなんて思っても見なかった。

多くの方が語っているように、その長ーい長ーい電話のお相手にもさせてもらった。
伝説の六本木交差点近くの黒づくめのお部屋にも何度か足を運んだ。
でも、直接会っていて思うことは、マキさんが実は物凄く明るい人なんだということだ。
こういう話をするとマキさんのイメージを壊してしまうかもしれないが、僕は何度かマージャンをご一緒したことがある。
まだこの業界に入ってさほど時間が経ってない頃、同業の先輩から、今日新宿でマキさんたちとマージャンをやるからお前も来いってことで付いて行ったら、黒いサングラスのマキさんそしてボサボサの頭であまり綺麗とは言い難い格好のスタッフたちが既に卓を囲んでいた。
正直ちょっと怖気付いて、その日は散々にやられてしまった記憶があるが、それ以上に驚いたのは、マキさんがキャッキャと声を出して本当に楽しそうにマージャンを打っていることだった。そのときのマキさんは天真爛漫にマージャンに没頭していて、僕は徐々に楽しい人なんだという親しみを覚えていた。

ある時、マキさんの京大西部講堂でのコンサートの際、当時僕がマネージャーをやっていたギターの杉本喜代志さんが参加することになった。コンサート自体はマキさんのスタッフがいるわけで、僕は杉本さんをお貸しすれば良いだけだったが、マキさんから
「三田さんも是非一緒に来てください。」
と言って頂き同行することになった。
その翌日ホテルのメールボックスに、僕宛のお手紙入が置いてあった。
ホテルの便箋に、ギャラの精算とその内訳、そして小額であることのお詫び、同行したことへのお礼などなど。
そして最後に
『夜明けの六時 もう、メロメロ』
とあった。
翌日自然解散する出演者やスタッフのために、朝までギャラの準備をしていたのだ。
そういうスタッフに対する気遣いは人一倍強い人で、このときも本当に感激したものだ。
この手紙そして手紙の入った京都パレスサイドホテルの封筒は今でも持っている。

平成22年3月4日、縁の新宿ピットインで
「浅川マキがサヨナラを云う日」
と題されたマキさんを偲ぶ会が催された。

僕はスタッフとして、マキさんに献花するために集まる人々を迎えるべく、朝からピットインのビルの地下の踊り場に立っていた。
朝から雨模様で、地下のその踊り場は二箇所の階段から冷たい風が流れ込み冷え冷えとした。
我々スタッフは、交代で休憩を摂りながらも殆ど立ちっ放しで、寒さと足腰の疲れに耐えながらも、絶えることなく献花に訪れる人々を夜まで待ち続けた。

マキさんが自分の音楽を突き進めるために、レコーディングでもライブでもとことん細部にこだわり、それ故に時の流れが止まってしまうようなときでも、辛抱強く辛抱強く目標に向っていたその姿勢を思い出しながら立っていたのは僕だけではないと思う。
昔僕がマキさんと始めて仕事をした頃の当時のマキさんスタッフだった二人が、朝からその踊り場の壁に沿ってじっと立っていた。
今回はスタッフとしてではなさそうなのに、特に何もすることはなく口をきくことも無く只ひたすら立っていた。
何か中途半端にこの場を去ってはいけないかのように、何時間ものこの会の間立ち続けていた。

平成22年3月某日
三田