2009年10月26日月曜日

山下洋輔トリオ復活祭

mita





7月19日(日)夕刻。
あの伝説の山下洋輔トリオの40周年記念コンサートが、日比谷の野外音楽堂で催された。
出演は、山下以外に第一期トリオの中村誠一(sax)と森山威男(ds)、以下坂田明(sax) 、小山彰太(ds)、林栄一(sax)、国仲勝男(b)、そして亡武田和命(sax)の代理人菊地成孔(sax)と歴代のメンバーが勢ぞろい。司会は勿論山下の心の師相倉久人だ。

僕はこの企画を聞いたときから「是非手伝わせて欲しい。」と村松社長に申し入れ、実際ジャムライス在籍時代と同じように、基本的に全ての打ち合わせに参加させてもらい、当日も25年ぶりにいちスタッフとして楽屋周りを担当した。

会場には早くから嘗てからの熱狂的ファンのみならず、伝説のトリオを一目見ようという若いファンも多数押しかけている。
まずオープニングは、林&小山の第4期トリオの「回想」からスタート。
いきなり飛び出した林さんのプレイに、舞台袖から見守る誠一さんの「飛ばしてるなあ!」の声に一同ニヤニヤ。
コンサートはその後、時代を遡り最後の第1期トリオ、そしてアンコールで全員集合の「GUGAN」まで、熱い演奏が繰り広げられた。
ただひとり出ずっぱり(休憩後の相倉さんと菊地さんのトーク・タイム以外は)の山下さんの体力が心配であったが、そのパワーは衰えることなく完奏。?十歳前とは思えない。

2部の第2期トリオのあの名曲「キアズマ」の演奏中、空には見事なダブル・レインボウが掛かった。山下さん曰く、この二つの虹はこの間亡くなった武田和命さんと平岡正明さんだ、というのはその通りだと思う。
この40年の間に多くの方々がこのトリオに係わってきたが、その誰しもが今回のコンサートに多大なる祝福を送ったに違いない。





*本コラム掲載写真以外の写真をご覧になりたい方は、カメラマン内田巧さんのサイトでご覧いただけます。
http://www.uea00.com/yyt40th/index.html

山下洋輔トリオ復活祭 その2

mita

そもそも僕が音楽の世界で仕事するようになったのは、山下さんのマネージメント事務所ジャムライスに誘われたことが切っ掛けだ。丁度ドラムの森山さん から彰太さんへと変わった第3期山下トリオへの転換期で、山下さんのマネージメントもその前のテイクワンからジャムライスに移行したばかりであった。
その後7年間ジャムライスでお世話になった後、現在のCM音楽プロデューサーを目指し退社、1年半後には現在の(有)スーパーボーイ(当初は(有)四宝)を立ち上げた訳だが、ここでの経験が今の僕の仕事にどれ程役立っているか計り知れない。

僕が山下洋輔というミュージシャンを知ったのは、高校3年の頃である。
ジャズを聴くようになったころ、ジャズ雑誌のなかでちょくちょく名前を見るようになり、何となくその活動が気になっていた。
そして大学受験のため上京した僕は、恵比寿の伯母の家に宿泊しており、受験の帰り道渋谷の有名なオスカーというジャズ喫茶に入った。そのときに店の壁に「山下洋輔トリオ出演」と書いてあった。これはラッキーと思ったが、よく見るとその張り紙は翌月の案内であった。
元々受験で上京するに当たって、折角なので必ず東京でライブを聴きたいと思っていて、受験の最終日には友人たちと待ち合わせ新宿のピットインに出掛けた。するとなんとその日の出演が山下トリオだったのだ。勿論中村、森山の第1期トリオだ。

当時ジャズの聴き初めで、所謂オーソドックスなモダンジャズばかりを聴いていて、フリー・ジャズというものにはあまり興味は無かったが、何故か山下洋輔という名前には引っかかるものがあった。
現在のピットインの3分の1くらいのスペースのなかはぎっしりで、身動きも出来ない。
演奏が始まるや物凄いパワーとスピードで唖然とするうちにあっという間にステージが終わった。同行した友人二人は特にジャズファンという訳ではなかったが、「なんかよう分からんが、かっこええのお!」と感動していた。
僕は、なにか凄いものを見た気がして何も言えなかった。

僕は結局広島の大学に行くことになり、東京でジャズ三昧の大学生活という目論見は砕けたが、その代わりに大学の最初の夏休みに京都を中心にしたジャズ喫茶巡りを敢行した。
広島から京都に向う途中で神戸に立ち寄り、まずは最初に目指す店「さりげなく」を探した。ジャズ雑誌に広告掲載されている割には、狭くて只普通の喫茶 店風の店だった。そのときに流れていた音楽がフリーで激しい。もしやと思いジャケットを見せてもらうと、当時珍しい自主制作レコードで、入手困難だった山 下トリオのデビュー・アルバム「ダンシング古事記」であった。名前だけで聴いたことは無かったが、すぐにぴんと来た勘は正しかった。

同じ夏、僕は仲間を誘って、三重にある合歓の里で行われるジャズ・フェスティバルに出向いた。そこでは、渡辺貞夫、日野皓正、菊池雅章やチック・コリアなどと共に山下トリオにブラス・セクションを配備したスペシャル・バンドが出演していた。
そのフェスティバルは、台風で雨風が混じる中で夜通し敢行された野外ライブ。我々聴衆はずぶ濡れになりながらも豪華な出演者の素晴らしい演奏に酔いし れていた。そして明け方、最後のバンドの演奏が終わっても盛り上がった観客の拍手・歓声が鳴り止まない。困った主催者が、聴取を鎮めるために急遽呼び出し たのが山下洋輔で、彼は一人黙ってピアノに向かい静かにソロプレイを始めた。先ほど見せた激しいプレイは今は無い。空が白み朝を迎える中の素晴らしい演奏 で、聴衆誰もが納得し、フェスティバルは幕を閉じた。

その数年後、偶然ジャムライスに入ったばかりの僕は、当時この合歓の里ジャズフェスティバルの企画制作に係わっていたジャムライスのスタッフとして、また同時に山下トリオのスタッフとしてこの合歓の里に再び乗り込むことになったのである。
ジャムライスでの7年間は、なにものにも変えがたい沢山の経験をさせて頂き、楽しくて仕方ない時代だった。
丁度「全冷中」の第1回イベントが開催されたのも僕が入った年だったし、タモリさんや赤塚不二夫さんはじめ音楽界ではない人脈も含めて、物凄い人たちとの交流に末席を汚させて頂いた。

その後ジャムライスを辞し、CM音楽プロデューサーを目指したわけだが、そのときに心に秘めていたのが、「山下さんとCMの世界で仕事をしたい。」と いう夢だった。それまでCM出演の話は多数ありながら、内容的に断り続けていた山下さんであったが、必ずや山下さんに合った良いCMの機会があるはずだと 信じていた。
そして会社設立10年目の節目の年、ジャムライスから「今度山下さんのダイハツMOVEという車のCM出演が決まったが、音楽プロデューサーを引き受けて欲しい。」との連絡を頂いた。ついに念願がかなったのだ。
山下洋輔初のCM出演。勿論音楽はオリジナル。その頃CM音楽プロデューサーとしてそこそこの経験は踏んでいたものの、やっとCM出演を決意した山下さんの音楽をどうするか、眠れない日々が続いたがそれは同時に僕にとって一番楽しい時間でもあった。
結果的にはインパクトがある音楽と映像となり評判はすこぶる良かった。僕としても代表作として大事な作品となった。

山下さんとは今も交流をさせて頂いており、自分がプロデュースした音楽を聴いていただいたり、山下さんのコンサートに関して僕なりの感想や意見を述べさせて頂いたり。時には「そっくりさん探し」など音楽以外の話もさせてもらっている。
僕はいつの間にか山下さんを師匠のように感じるようになっている。
山下さん、押しかけの弟子ですが、今後とも宜しくお願いいたします。