2010年3月30日火曜日

浅川マキさん



平成22年1月17日、歌手の浅川マキさんが亡くなった。
訃報を知ったのは、当社の元従業員のマリからの電話だった。
マリは現在京都在住で、マキさんと極親しい京都のライブハウス経営者と懇意にしていて、その筋からの連絡網だったようだ。

それまで特に体調の異変を聞いていなかったので、俄かには信じられなかったが、その経緯を聞いて、何か納得したような気持ちになった。
息を引き取ったのは、昔我々もお世話になった名古屋のライブハウス Jazz in Lovery での3daysの中日の公演後。その日の公演が最高の出来で、上機嫌でホテルに帰った後の急変だったそうだ。
いかにもマキさんらしい、音楽世界の真っ只中での昇天だ。

浅川マキという存在を始めて知ったのは、おそらく高校時代のTVだったと思う。
TV?とマキさんのことを良く知る人は思うことだろう。
フジTVの「ミュージック・フェア」という長寿番組はご存知の方が多いだろう。
当時この番組は今と違って、所謂売れ線のミュージシャンではなく、比較的茶の間ではあまり接することの無い内外のミュージシャンを積極的に取り上げていた。

サム&デイブやB.B.キングを初めてみたのはこの番組。初来日どころか、アメリカのソウル・チャートでいきなり1位になったばかりでまだ若かったアレサ・フランクリンをベテランのルー・ロウルズが紹介し、アレサが唄い出したときの衝撃は忘れられない。
当時急激に多くの海外ミュージシャンが来日するようになっていたが、その殆どのミュージシャン達がこの番組に出演していたように思う。

国内のミュージシャンの記憶は比較的少ないが、なかでも良く覚えているのは、マイルスに傾倒しエレクトリック・ジャズに挑戦していた日野皓正のLike Milesという曲、そして最も衝撃的だったのが浅川マキさんである。
特にマキさんはその存在すら知らなかった訳だが、「かもめ」「夜が明けたら」の2曲を例の黒装束と佇まいで歌っている姿は目に焼き付いている。上記の海外アーティストや日野さんのJazzは、当時洋楽志向だった僕にはうってつけで、ある意味なんの違和感も無かったわけだが、日本語のオリジナル・ソングがこれほどソウルフルで心に響いたことそのものに自分自身が驚いたわけだ。
「この人、なんなんだ~。」
って。

その後、フリージャズの山下洋輔さんや森山威男さんがバックを勤めていたり(山下さんは曲も提供している)、山木幸三郎さんというビッグバンドのギタリストが作曲やアレンジをしているということを知り、その尋常ではない存在感の原点が少し分かったような気がしたものだ。

僕自身は大学を経て短期間の会社勤めの後、山下洋輔さんの事務所で働くことになるわけだが、その事務所にマキさんから電話が掛かってきたり現れたり、そして一緒に日比谷野音でコンサートをやることになりスタッフとして働かせてもらうようになるなんて思っても見なかった。

多くの方が語っているように、その長ーい長ーい電話のお相手にもさせてもらった。
伝説の六本木交差点近くの黒づくめのお部屋にも何度か足を運んだ。
でも、直接会っていて思うことは、マキさんが実は物凄く明るい人なんだということだ。
こういう話をするとマキさんのイメージを壊してしまうかもしれないが、僕は何度かマージャンをご一緒したことがある。
まだこの業界に入ってさほど時間が経ってない頃、同業の先輩から、今日新宿でマキさんたちとマージャンをやるからお前も来いってことで付いて行ったら、黒いサングラスのマキさんそしてボサボサの頭であまり綺麗とは言い難い格好のスタッフたちが既に卓を囲んでいた。
正直ちょっと怖気付いて、その日は散々にやられてしまった記憶があるが、それ以上に驚いたのは、マキさんがキャッキャと声を出して本当に楽しそうにマージャンを打っていることだった。そのときのマキさんは天真爛漫にマージャンに没頭していて、僕は徐々に楽しい人なんだという親しみを覚えていた。

ある時、マキさんの京大西部講堂でのコンサートの際、当時僕がマネージャーをやっていたギターの杉本喜代志さんが参加することになった。コンサート自体はマキさんのスタッフがいるわけで、僕は杉本さんをお貸しすれば良いだけだったが、マキさんから
「三田さんも是非一緒に来てください。」
と言って頂き同行することになった。
その翌日ホテルのメールボックスに、僕宛のお手紙入が置いてあった。
ホテルの便箋に、ギャラの精算とその内訳、そして小額であることのお詫び、同行したことへのお礼などなど。
そして最後に
『夜明けの六時 もう、メロメロ』
とあった。
翌日自然解散する出演者やスタッフのために、朝までギャラの準備をしていたのだ。
そういうスタッフに対する気遣いは人一倍強い人で、このときも本当に感激したものだ。
この手紙そして手紙の入った京都パレスサイドホテルの封筒は今でも持っている。

平成22年3月4日、縁の新宿ピットインで
「浅川マキがサヨナラを云う日」
と題されたマキさんを偲ぶ会が催された。

僕はスタッフとして、マキさんに献花するために集まる人々を迎えるべく、朝からピットインのビルの地下の踊り場に立っていた。
朝から雨模様で、地下のその踊り場は二箇所の階段から冷たい風が流れ込み冷え冷えとした。
我々スタッフは、交代で休憩を摂りながらも殆ど立ちっ放しで、寒さと足腰の疲れに耐えながらも、絶えることなく献花に訪れる人々を夜まで待ち続けた。

マキさんが自分の音楽を突き進めるために、レコーディングでもライブでもとことん細部にこだわり、それ故に時の流れが止まってしまうようなときでも、辛抱強く辛抱強く目標に向っていたその姿勢を思い出しながら立っていたのは僕だけではないと思う。
昔僕がマキさんと始めて仕事をした頃の当時のマキさんスタッフだった二人が、朝からその踊り場の壁に沿ってじっと立っていた。
今回はスタッフとしてではなさそうなのに、特に何もすることはなく口をきくことも無く只ひたすら立っていた。
何か中途半端にこの場を去ってはいけないかのように、何時間ものこの会の間立ち続けていた。

平成22年3月某日
三田

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